川上恵(沙羅けい)の芸術村
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                         霧の郷



     キセルではあるが、中辺路と大辺路を歩いたのは、10年以上も前のことだ。
     まだ世界遺産にはなっていなかった頃である。
     鬱蒼とした上り坂の細い道や、海が見える古道に人影は皆無だった。
     それはもう、ひっそりとしていて、いかにも神のおわす道だった。

     昨年の台風と大雨で中辺路は、ひどく打撃を受けたと知って1年になる。
     気になりつつ、7月のある日、不寝王子と大門王寺の間にある、熊野・高原神社あたりを訪ねた。
     中辺路である。

     富田川は川霧が流れていた。
     広い川幅を舐めるように白い霧が立ち昇っている。
     蛇になって安珍を追った清姫の生誕の地は、川のほとりにある。
     さぞや鄙に稀な美女だったろう。

     高原神社も霧の中にかすみ、幽玄を通り越して恐ろしいくらいである。
     友人との2人旅だが、彼女が霧の中に消えてしまいそうで、私は声をかける。
     その度、白い紗の向こうから、くぐもった声が返ってきて、私はホッとするのだった。
     このあたりは霧の発生地である。
     
     そこに「霧の郷たかはら」という宿がある。
     知る人ぞ知る、天空の宿である。
     霧は下界をすっぽりおおい隠し、あたかも虚空に浮かんでいるようだ。
     私と彼女は見えるはずのない霧の向うを凝視し続ける。
     「ほんまに神さんがいてはりそうやね」
     「どこからか私たちをみてはりそうな気がする」
     「ええ人にならんとあかんねえ」