川上恵(沙羅けい)の芸術村
 話のポケット
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                       蟹満寺



    ずいぶん昔のことで、作者も本のタイトルも忘れてしまったが、文中の蟹満寺という
    珍しい寺名だけは強く印象に残っていた。
    肩の凝らない推理小説だったが、次々と起こる殺人事件のなかで、1番目の殺人が起こる
    場所だ。
    その名前のユニークさに、訪ねてみたいと思いながら、不思議に今日まで訪ねられずにいた。
    
    場所は山城の国。奈良時代には「山のあなた」とされたところだ。
    創建は飛鳥時代の後期。秦氏の一族によって建立された古寺である。
    風景のあちこちに竹林がこんもりとした森をつくり、森閑とした空気が辺りを包んでいる。
    京都市内の賑わいが嘘のようだ。
    小説の舞台となった寺院だ。期待が膨らむ。

    蟹満寺は小ぢんまりとした美しい寺だった。
    それもそのはず、本堂は平成22年に改築されたばかりだ。殺人が行われるおどろおどろしさは
    どこにもない。現在の蟹満寺を見たら、さぞや作者は驚くことだろう。
    山門にかかっている扁額や幕、線香立て、灯篭、そして賽銭箱にも蟹が描かれている。
    愛嬌のある寺のシンボルである。

    あちこちに蟹がいるのは、今昔物語に載っている「蟹の恩返し」に由来している。
    観音さまを信仰している娘が蟹を逃がしてやったところ、ヘビに嫁がなければならない窮地を
    蟹たちが救ってくれたという話である。
        
    蟹、鶴、亀、ねずみ、狸、狐、蛇、かわうそ、蛙、狼、そして犬に猫……
    みんな恩返しをするらしい。
    人間はさぞや大きな恩返しをすることだろうと、少し肩身の狭い思いをしながら本堂への
    階段を昇った。
    

    本堂に座す釈迦如来はなんとも穏やかで端麗だ。
    丈六(2m40)の金銅坐像はゆったりとしていながら荘厳である。1300年もの間、
    ずっとここに座り続けておられるという。
    衆生を救い落さないための、指の間の水かきのような曼網相は、この上なく大きい。
    底冷えのする堂内は、私ひとりだ。
    国宝の釈迦如来の前で、私は長い時間、首を垂れていた。
    半眼の目は優しく私を見下ろしている。
    白毫も螺髪もない釈迦如来は、ただただ優しい。

    
            さとりなき蟹だに  なお 恩を受くれば 恩をかえす
                          あに 人にして 恩を忘るべからむや



                             京都府木津川市山城町綺田(かばた)浜

                          2019.1.7